SORA BLOG

1997年 神奈川県生まれ。幼少期から中学時代にかけ、毎週末フェラーリをはじめ高級車を扱うショールームの扉を叩いて回るなどクルマを追いかけ回す日々を送る。高校時代、友人と仏を旅したのを機に関心の目が世界へと広がる。大学入学後、20カ国以上を放浪。1年間スウェーデン・ストックホルムに滞在。/大のビートルズ好き

腹下してもやっぱり好きだベトナム。ダナン、フエ、ホイアンを訪れて。

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空港を出ると、聞こえてくる町中に鳴り響くクラクション、途絶えることのないバイクの群れと街中に漂う独特の香り。自由奔放に路地を歩き回る犬の姿がどこか、可愛い。犬と子供は世界どこ行っても可愛いいし、癒される。


初日には、独特の匂いに思わず、鼻を手で覆ってしまっていたヌック・トゥーン(大豆から作られる醤油。道端にある安い食堂からレストランまで、どこにでも置いてある。)の香りも、毎回、帰る頃には好きになってしまう。ヌック・トゥーンを炒飯にかけたら、箸が止まらない。一ヶ月一年毎日食べてもいい。

 

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そんなベトナムに、2年ぶりに、雨季とは知らず、航空券が安かったので高校時代の友達2人と行ってきた。今回は、ダナン、フエ、ホイアンをまわった。
 

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着いて早々、大粒の雨雨雨。天気予報は、連日降水確率90%の雨予報。雨季とは知らずベトナムに来た、相変わらずの自分のアホさには呆れる。飽きるほど自然のシャワーを浴びながら、フエ、ダナン、ホイアンを、道端で買った60円の雨カッパをかぶりながら、気合いで歩き回った。
 

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街を歩いているとたまに、バイクで溢れかえる道路に、時々道を大きく占領しながら走るアウディやベンツ、ロールスロイスなどの高級車を見かける。
 
アルバイトの時給が、15,000ドン(日本円で約75円)、平均月収が約3万円ほどのこの国で、輸入車を乗り回すのはたやすい事ではないだろう。しかも、輸入車には200%の関税が課される。急速に経済発展をしているとはいえ、生活水準の差は、日本と比べるとまだ大きい。ベトナムでの大学進学率は、約25%ほど。日本で当たり前のように大学に入り、努力次第で未来を広げることのできる環境にいるのにも関わらず、どこか怠けた生活を送っている自分がどこか恥ずかしくなる。多くのベトナム人が、より良い生活を求め、日本や韓国などの国に出稼ぎに来たいと思うのは理解できる。
 
今、ちょうど国会では外国人労働者の門戸を広げる法案が審議されている。現行の技能実習制度の下では、多くの技能実習生が低賃金や劣悪な労働環境に耐えきれず失踪している現状がある。そうした現状や審議中の法案の中身を見ているとどこか、日本は外国人労働者を「ひと」ではなく、都合の良い「もの」のように扱っているような気がする。もし、今後の少子高齢化社会を担う仲間として、受けいれる事を考えるのであれば、共生や定住に向けた支援体制を十分に整備し、日本人と同等の労働者の権利を確約し、社会全体で受け入れ体制を整えた上で、外国人労働者受け入れ拡大をするべきだと思う。景気が悪くなったら、使い捨てするような都合のいい扱い方はどうかと思う。(リーマンショックの時、失業した日系外国人を一定期間 再入国を認めない形で帰国させたりしてたこともあった。)

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なんてことも考えながら過ごしたベトナムでの日々。


見た目ほぼ生肉の綺麗な赤色の牛肉が入ったフォーを食べて、友達と腹下したり、フエで予約していたホステルがなぜか埋まっていて、強い雨の降り注ぐ中、宿を探し歩いたり、トラブルはあったけれど、地ビールを飲みながら、毎日ベトナム料理を満腹に食べたり、夜市でカエルを食べたり、毎日最高に楽しかった。

 

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(ホイアンのナイトマーケットで串焼きにされて売られていたカエル。想像していたより美味しかった )

 

市場で、おばちゃんと電卓を片手に、値切り合戦するの、何度やっても楽しいし、又やりに行きたい。ドンも両替しすぎて余ったし、また市場のおばちゃんに会いに、ベトナム人の愛らしい笑顔見に又、行こう。(今回銀行(Vietcombank(VCB))で両替したんだけど、手数料3%ぐらいでまじレートよかった。空港で両替、絶対しないほうがいい。日本の空港は特に。)

 

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就活が本格化する前に、あと一回旅行きたい。やっぱ旅好きだ。ベトナム好きだ。

 

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イランで見つけた、心温まる「おもてなし」。ひとり旅をしていた僕が全く孤独を感じなかった国。(テヘラン・イスファハン・シラーズ)

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どうも、イランに行って以来すっかり、中東の魅力にはまってしまったそらです。

 

今年の4月末から5月の前半にかけ、約10日間イランにバックパックしてきました。

 

僕が帰ってきてからトランプがイランとの核合意を破棄し、改めて制裁を課し、イラン通貨リアルが暴落するなど、混乱続きのイラン情勢。(正直、いいタイミングで行ったと思います。)

 

日本に住んでいるほとんどの方は、イランと聞いて、ペルシャ絨毯やペルシャ猫などしかパッと思いつくものはないと思います。

 

今回は、そんなベールに隠された謎の国イランについて、書きます。

 

Contents

  • 1. シャリーア(イスラム法)に支配されている社会
  • 2. イランに行くことの代償。ESTAから追放。
  • 3. 困っている人を決して見て見ぬ振りをしない(できない)国民性
  • 4. 英語が話せなくてもとにかくガンガン話しかけて来るイラン人

 

1. シャリーア(イスラム法)に支配されている社会

 

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ここイランでは1979年のイスラム革命以降、イスラム教に基づく法制が轢かれ、女性には外出時、ヒジャブの着用が義務づけられています。(観光客の女性も含まれます。)


ヒジャブの着用以外にも、飲酒禁止(スーパーの店内一角にノンアルコールコーナーを見つけたけど、もちろん全て0.0%)、未婚の男女が公共の場でイチャイチャするの禁止、女性の一人旅の際には、警察署に届け出が必要などなど、イスラーム法にのっとた厳格なルールがこの国を支配しています。

 

実際、街でヒジャブを着用して歩く女性、前と後ろを境に男女が分けられているバスや電車の車内、駅のホームを見ると、この国がイスラーム法により支配されていることを、感じさせられます。

 

2. イランに行くことの代償。

 

正直に言います。イランに行くと後の旅に支障がでます。(南米、アメリカへの旅を計画中の方、アメリカ方面に頻繁に行かれる方には。)

 

例えば、今後、僕がアメリカへ旅をしたい時、もしくはアメリカを経由して南米に向かおうとした時に、一般的に渡米に短期滞在する際に必要となる、電子渡航認証”ESTA”を申し込むのではなく、非移民VISAを申請する必要があります。(大使館に行き、面接を受け、160ドル払います。ただし、一度申請してしまえば10年間有効。)

 

それというのも、2016年に施行された「ビザ免除プログラムの改定及びテロリスト渡航防止法」という法律によって、イラク、イラン、スーダン、シリア、リビアソマリアまたはイエメンに渡航履歴がある場合は、ビザ免除対象外となるからです。

 

詳しくはこちら↓

jp.usembassy.gov

 

貧乏トラベラーの僕にとって、正直これは痛いです。

 

これを聞いて、イランへの旅を避けようと思う方いると思います。僕も、イランに行くか結構、治安もどうなのか不安でしたし、迷いました。(いつも何にも考えないでカチカチと無心で航空券購入をクリックする僕が、30分以上は悩んだ。)

 

しかし、今まで旅をしてきた中で、イラン以上に刺激があり、ある意味強烈で思い出深い国はありません。(タクシーに2回ほどぼられたけれど) 「イランに行かずして、死ねない」。

 

ここまでネガティブな面ばかり、書いてしまいましたが、ここからは、そんな旅の中でも、特に印象深かった、イラン人の国民性とホスピタリティについて紹介したいと思います。

 

 

2. 困っている人を決して見て見ぬ振りをしない(できない)国民性。

 

イランほど、人の優しさ、温かさに触れられる国はないといっても過言ではないと思えるほど、旅中、毎日多くの人に手を差し伸べられ助けられました。

 

とてつもないほどフレンドリーなイラン人。イスファハーンやシラーズでは、街を歩いているだけで、30分に一回くらいは誰かが話しかけてきました。中には、果物やお茶、観光案内までしてくれる人まで。あまりに、"Can I take a photo with you?"と話しかけられることが多かったので、最後の方には有名人気取りで楽しんでいました。(笑)

 

イランほど、ひとり旅をしていて孤独感を感じない国はないと思います。孤独なバックパッカーにとっては、ある意味最高な場所。

 

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そんな思い出を一つ一つあげてもきりがありませんが、すぐ頭に思いつく限りでも、

 

地下鉄の駅やバス停で路線図を見ていると必ず話しかけてくる人々(中には、目的の駅まで一緒に付いてきてくれる人もいました)。

 

迷子になって道を聞いた時、クルマで目的地まで送ってくれた人。

 

店前を歩いていると、話しかけ果物やお茶をくれた陽気なおっちゃんたち。

 

夜行バスで食べ物をくれた人たち(ほぼ毎回バスに乗るたびに、隣に座っていたイラン人から、ありがたい事に食べ物やお菓子をいただいた)。

 

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夜行バスに右も左も分からない街に深夜3時ごろ降ろされ、街をぶらぶらしていたら声をかけてくれて、ロビーで寝かせてくれた上に、シャワーを貸してくれて、朝食まで振舞ってくれたホテルのおじさん。(その後、荷物も置かせていただいた。心から感謝。)

 

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街を一日かけて案内してくれた同世代のイラン人学生。彼女から聞いた、イラン人の若者の考え方や、イラン社会の現状に対する不満はとても興味深く、79に起きたイラン革命の理念が崩れ始めているのを肌で感じました。(この事については、また別の機会に詳しく書こうと思っています。)

 

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街で話しかけられひとり旅をしていると言ったら、クルマで街を案内してくれた上に夕食までご馳走してくれたイラン人家族。

(話しかけてくたお父さんは80年代、日本で働いていた経験があり、日本語が堪能でした。88年のイラン・イラク戦争後、イランは経済が疲弊し、失業率が高かったため、多くのイラン人は、海外に仕事の場を求めました。その1つが日本でした。というのも、日本とイランは1974年にビザ相互免除協定を締結してたため、この協定を利用し、比較的安易に働く事ができたという背景がありました。当時、多くのイラン人が日本に出稼ぎに来ていたと言います。彼もその1人でした。)

 

店前を歩いていると、話しかけてきて、果物やお茶をくれた陽気なおっちゃんたち。

 

会って1時間も経っていないのに合鍵を渡してきたホスト。(イランでのカウチサーフィン体験談はまた、別の機会に詳しく書きます。)

 

一つ一つあげて言ったらキリがないほど、多くのイラン人の優しさに触れ、助けられた日々でした。

 

日本人は優しいという言葉を聞きますが、正直東京の街を歩いていると、路線図を前に悩んでいたり、駅のホームで迷っている外国人に話しかけていこうとする人はまだ、それほど多くないと思います。(英語が苦手という理由もあるかもしれませんが、)

 

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3. 英語が話せなくてもとにかくガンガン話しかけて来る

 

彼らはとにかく、電車に乗っていても、バスに乗っていても、広場でアイスを食べていても、とにかく話しかけてきますが、決して英語が達者だという訳ではありません。

 

むしろ、日本と同じか、それ以上に英語は伝わらないと思います。

 

なので、ほとんどの対話は、

"Heyyy where are you from?"

"I'm from Japan!! "

"おおお前、 日本から来たのか!!!よく遠くから来たな、どうだイランは?

(ペルシア語。多分こんな事言ってたと思います。)

"????????" (笑顔)

"名前なんて言うんだ? name name"

"I'm Sora"

"من ۔۔۔ هستم۔------------ (ペルシア語)"

"ワッハハハハハハハ"(分かってない)

 

みたいな感じでした。会話はご覧の感じで、成り立たないことが多かったのですが、なぜかとても楽しいし、何を言っているのか逆にとても理解したくなるのです。ボディランゲージやスマホを駆使して、相手の言いたい事が分かった時は、何事にも変えられない達成感を味わいました。(笑)

 

イラン人の積極的に話しかけて来る姿勢、言語学習の際にとても参考になると思うんです。実際、話しかけてくれたイラン人の子の中には、英語(中には日本語)のスピーキングを鍛えるために、外国人を見たら話しかけているという子もいました。

 

街の外国人にとりあえず、話しかけていく語学学習法は、コストもかからないし、リアルな言語が身につくしで、メリットづくし!?

 

  

 

正直、イラン人の魅力を全て書いていたら、飛行機で中東に行けてしまうほどの時間が経ってしまいます。ですので、ぜひ、イランに実際に行って、フレンドリーなイラン人の方の優しさ温かさに触れてきてください。

 

1つ、イラン人の方によく言われた事があります。

 

それは、

「なぜ、日本人はイランに来ないの?」という言葉。

 

イランの旅中、欧米人や中国人のバックパッカーや団体客はよく見かけましたが、日本人は圧倒的に少ない。旅を通して会った日本人は、空港で会った1人だけでした。

 

次の旅の行き先に迷っている方は、イラン、ぜひご検討ください。アメリカのVISAの問題で避けるのは勿体無いです。(一度、申請してしまえば10年間は有効です。)

 

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 (ひたすら続く砂漠地帯を走るバス。)

脅かされる日常 パレスチナ自治区ヘブロンで起きている終わりの見えない対立と未来への小さな希望。

 

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(かつて賑わいを見せていたという商店街。立ち並ぶ商店の扉は今は閉められており、閑散としている。付近を歩く多くは、街を警備するイスラル兵。そこにパレスチナ人の姿はほとんどない。)

 

昨年の年末、イスラエルパレスチナ自治区を旅する中で、ヨルダン川西岸パレスチナ自治区に位置する最大都市ヘブロンという街を訪れた。

 

私がここに記す事はあくまで現地に住むパレスチナ人の人権活動家の方から聞いた話に基づく、パレスチナ人の側から捉えたパレスチナ問題であり、イスラエル入植者の話を聞く機会はなかったため、客観的と言えるものではない。

 

しかし、パレスチナ問題を知る上で、現地に暮らし生活を営んでいる人々の置かれている現状を知る事は、この深く終わりの見えない問題を理解する上でとても、意味のある事だと思い、ここに記録を残そうと思う。

 

遠く離れた地で起きている日本と全く関係のない地で起きている問題とは思わずに、パレスチナで今起きている問題に、少しでも興味を持つきっかけになっていただけたら、幸いである。

 

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1948年にイスラエルが建国されてから続く、パレスチナ人とユダヤ人の対立は現在も解決の糸口が見出されていない。そうした対立の一つの大きな要因となっているのが、当記事で紹介するユダヤ人入植地を巡る問題だ。

 

イスラエルは、ヨルダン川西岸地区を中心に、ユダヤ人居住区の建設を、国際法に違反しているのにも関わらず、国策として推し進めてきた。イスラエル政府の国際法を無視しながら、パレスチナ人を武力を盾に彼らの居住地から排除し、入植地建設計画を推し進める姿勢は、新たな憎しみを生み、対立を更に煽り、結果として、当問題の平和的解決を遠ざけることに繋がっている。

 

ここヘブロン旧市街は、そうした入植地建設政策の最前線に位置し、現在も度々イスラエル軍と入植地政策に反対するデモ隊との間で度々衝突が起こることで知られている。

 

旧市街には、旧約聖書に登場する預言者アブラハムの墓があると言われているマクペラの洞窟があり、ユダヤ教イスラム教の聖地としても有名で、毎年多くの巡礼者が訪れる。こうした聖地としての歴史的重要性があるが上に、イスラエルはこの地における入植地建設を推進してきたという一面がある。

 

そうした歴史的にも価値が高いヘブロンは、昨年ユネスコにより世界危機遺産に登録され、話題を呼んだ。登録決定後、イスラエルユネスコの決定に強く反対し、拠出金を削減することを表明。昨年10月に同盟国アメリカとともにユネスコからの脱退方針を表明するに至った。

 

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(マクペラの洞穴)

 

ヘブロンへは、ホステルで出会ったスペイン人の旅人と共に向かった。

 

男女ともに徴兵が義務づけられているイスラエル。イエルサレムの中央バスターミナルでは、徴兵先に向かうのであろう同年代の若者を多く目にした。イェルサレム中心地から、乾燥した大地をひたすら走るバスに揺られ約1時間半ほどで、ヘブロン近郊に位置するイスラエル入植地の街に着いた。

 

当初は、ヘブロン近郊のイスラエル側の町から、更にバスを乗り継ぎヘブロン旧市街を目指す予定だった。しかし、バスが予定時刻になっても来なかったため、地図をみて歩いてヘブロンへ向かうことにした。

 

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(ヘブロンヘの道中、六芒星が描かれた落書きを街の至るところで目にした。)

 

道中道を聞いた入植者に”歩くのは危険だからやめろ”と言われた為、頭の中に常に恐怖感がよぎっていたものの、幸い危険を感じる事なく、途中いくつかの検問所でのパスポートチェックを通過し、無事ヘブロン旧市街に到着。

 

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現地では、人権活動家として活動しているパレスチナ人の方の案内で街をまわり、イスラエルサイドとパレスチナサイド両方からヘブロンの現状について説明を受けた。

 

銃を持つイスラエル兵が立ち並ぶ重々しい検問所を抜け、パレスチナ側に入るとそこには、私たちが普段暮らしている日本で見られるのと同じ子供達の笑顔があり、人々の笑い声、果物や肉を売る人など、ごく普通の日常の風景がそこにはあった。

 

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 (パレスチナサイドの、商店が立ち並ぶ通りにて。)

 

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ハローと言いながらハイタッチしてくる子供達、一緒に写真を取ろうと寄ってくる陽気なおじさん、店先でお茶を出してくれたおばさん、ガイドが終わった後に家に連れていってくれご飯をご馳走してくれた人権活動家の方の家族。こんなにも人の暖かさ、優しさを感じる街は今までになかったと思えるほど、心地よく、優しい空気に包まれた街の印象が、今も鮮明に頭の中に残ってる。

 

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(検問所。) 

 

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 (パレスチナ人居住区を囲む壁。壁の向こうには、パレスチナ人の日常がある。)

 

街のそうした陽気な空気とは裏腹に、銃を片手にパトロールするイスラエル兵士、街の至る所に置かれている検問所、監視カメラと壁に囲まれた街にはどこか重苦しさを感じる。

 

ここヘブロンは、街がイスラエル軍の監視下に置かれているパレスチナ人居住区(H2)、パレスチナ自治区支配下にあるパレスチナ人居住区、そしてイスラエルによる入植によって築かれたユダヤ人居住区に分かれている。

 

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(検問所。外では照りつける太陽が眩しく蒸し暑さを感じるが、検問所内はどこか冷たく重々しい空気が漂う。)

ユダヤ人居住地と隣り合わせのH2は、イスラエル軍の厳重な監視下に置かれ、そこに住む子供たちは学校に行くのに毎日検問所を通らなけれいけない。

 

また、H2で商店を営んでいると、ある日突然、銃を持ったイスラエル兵に「今日からお前の店を閉鎖する。もう商売はできない」と言われ、強制的に移動され、店を追われることもあると言う。

 

イスラエル兵は、突然、銃を持ち現れ、問答無用にパレスチナ人の住居を占拠し、彼らを追い出す

 

抵抗したものは、連行され、収容所に入れられたり、時に取り調べの中で拷問を受ける。それが、ここヘブロンにおいての日常であり、当たり前に起きている事なのだ。

 

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 (ユダヤ人向けの大学近くにて。かつてパレスチナ人の学校として使われていた校舎は、イスラエルの入植政策により奪われ、現在は過激なユダヤ思想をユダヤ人の学生に教える大学へと形を変えていた。)

 

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ユダヤ人居住区からほど近い場所に位置する商店の立ち並ぶ通りの上を見上げると、そこにはユダヤ人入植者による投石などの嫌がらせから身を守るためのフェンスが張り巡らされていた。

 

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多くのパレスチナ人が、そうした嫌がらせを避けるため店を閉め、他の場所に移転していく中、一部のパレスチナ人は店を守ろうと、懸命に営業を続けている。

 

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(ユダヤ人居住区側に位置するパレスチナ人の家のベランダにも、投石などの嫌がらせを避けるためのフェンスが設置されていた。)

 

街で出会った多くのパレスチナ人は、状況は悪くなるばかりと口を揃える。

 

つい最近も、トランプ大統領イェルサレム首都認定宣言に反対するデモがあり、イスラエル軍とデモ隊との衝突の中少年が逮捕され、イスラエル軍による取り調べ中に暴行を受け、帰ってきたという話をマーケットの店先で出会ったおじさんが、その当時の衝突の映像を交えて話してくれた。ヘブロンに店を構える人の多くは、商品を買ってほしいという思い以上に、現状を知って欲しいという思いで観光客に話しかけている人が多いように感じた。

 

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YoutubeでHebronと検索すると、イスラエル軍によるパレスチナ人デモ隊に対する過剰な鎮圧を捉えた映像が数多くアップロードされてる。それらを見ていると、ここヘブロンは、治安が安定した地域ではないことに改めて気づかされる。

 

www.youtube.com

ちなみに、ここヘブロンは外務省の海外渡航安全情報でも、レベル3(渡航中止勧告)が発令されている地域に属しているため、治安の面で非常に不安定な地域だとされている。そのため、渡航の際には、現地の最新情報を確認した上でできる限り、細心の注意を払ってください。

 

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(検問所近くで和やかに会話をするイスラエル兵たち。)

 

イスラエル兵にも、パレスチナ人と同様に守るべき大切な家族がいる。

 

ヘブロンヘ向かう途中、同年代の兵士に話しかけられ、一緒に写真を撮り、少し立ち話をした。ニュースで暴力的な兵士として描かれる彼らは、世界のどこにでもいる、ちょっとお調子者で笑顔が絶えない、私たちと同じ若者だった。

 

国を守るという役目を背負い、誇りを持って任務にあたっている彼らを前に、イスラエル兵によるパレスチナ人に対する暴力について、批判する事はできなかった。

 

国家という巨大な権力が決めた方針に従って任務にあたっている彼らに、大きな責任があるとは言い難いような気がしてしまう。いつの時代も、汚い役目を負わされるのは、一般の国民である。特に、徴兵制があるこの国において、国家権力に対し、「私たちがやっている事は間違っているから、私は、徴兵を拒否する」なんて言えるわけがない。

 

 

平和への小さな希望の兆し

 

パレスチナ人の人権を顧みず、武力を背景に入植政策を推し進めるイスラエルと、それになすすべなく、銃を持つイスラエル軍に投石などで抵抗するパレスチナ人との間に、平和が入り込む隙間は一見ないように感じられる。

 

しかし、徴兵を終えたイスラエル兵の中には、イスラエル軍の自国民を守るという名目で武器を持ってパレスチナ人を威圧し、時に暴力を正当化してきた事に対して疑問を持つ人々がいた。

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https://www.breakingthesilence.org.il

そんな彼らイスラエル軍元兵士が立ち上げた団体が、"BREAKING THE SILENCE"。

 

元兵士である彼らは、沈黙を破り、西岸地区起きている現状について自らの兵役体験を語る事で、イスラエルでタブーとされるパレスチナ人に対する弾圧、不当な暴行に対する批判を声高に叫び、イスラエル世論に問題提起を行い、抑圧的な政策によって苦しむパレスチナ人を救うことを目的に活動している。

 

彼らは実際に自らが兵役中に勤務についた地域で、証言を交えたツアーを行なっている。今後、イスラエルに行く機会がある方は、彼らのホームページでツアーの日程を確認し、ぜひツアーに参加し、話を聞いてみてほしい。(ツアーは英語で実施。)

 

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2年ほど前、1ヶ月ほどヨーロッパを周遊していた時、西欧東欧のほとんどの都市に、シナゴーグと、ユダヤ人差別の歴史を後世に残すために建てられたユダヤ人資料館があることは、当時ユダヤ人の歴史について無知であった私にとって、とても印象的だった。

 

歴史上、何度も迫害を経験してきたユダヤ人。

 

歴史が複雑なのは、歴史上、数々の虐殺や、差別、迫害に苦しめられてきたユダヤ人たちの国家イスラエルが現在、イギリス、アメリカと並んで世界で最も好戦的な国の1つとして数えられている事。

 

2年前の大規模なガザに対する侵攻によって、ガザに住む多くの一般市民が殺され、負傷し、住居を奪われたニュースはまだ記憶に新しい。

 

いかに、歴史における暴力の連鎖を断ち切っていけるのか。

 

私たちは、平和な国に暮らす1員として、こうした人類が抱える大きな地球規模の問題に少しでも真剣に向き合わなければいけないと思う。たとえ、それらが私たちの生活に直接的には関係ないとしても。

 

国連安保理の場において、拒否権を行使しイスラエルを擁護し、多額の資金援助を行なっているアメリカの親しい同盟国である日本にとって、パレスチナ問題は、全く関係のない問題とは言えない面が少なからずあるのではないか。

 

この記事を読んで、少しでもパレスチナで今リアルタイムで起きている問題について、興味を持つきっかけになってもらえたら、幸いである。

 

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(ユダヤ人居住区近くの幼稚園を通りかかったら、子供達がこちらへやってきた。)