SORA BLOG

1997年 神奈川県生まれ。幼少期から中学時代にかけ、毎週末フェラーリをはじめ高級車を扱うショールームの扉を叩いて回るなどクルマを追いかけ回す日々を送る。高校時代、友人と仏を旅したのを機に関心の目が世界へと広がる。大学入学後、20カ国以上を放浪。1年間スウェーデン・ストックホルムに滞在。/大のビートルズ好き

イラン紀行 ペルシアの風に吹かれて①国際政治の荒波に飲まれて。

混乱が続くイラン情勢を前に、大好きなイランに安定した平和な日々が訪れることを祈りながら。

 

(2018年)イランへは、トルコ・イスターンブールのアタチュルク国際空港を経由した。深夜1時の便の乗り継ぎまでの間、街の光が反射し白く光る雲の中に消えていく飛行機を、椅子に横になりながらひたすら眺めていた。空港内のWifiが有料であったのに加え、荷物のパック中、減量のため本を部屋に置いてきてしまったため、暇をつぶすものがなかったのだ。夜も更け、離陸する飛行機の数が減り始めた頃、ようやく搭乗アナウンスが流れ、機内へ。耳に馴染みのないペルシア語の機内アナウンスに胸が高まる。

 

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(トルコの空港で、西洋に「さようなら」)

早朝3:30、機内の窓から見える、街灯がポツリポツリと灯る寝静まった街を横目に、飛行機はエマーム・ホメイニー国際空港に着陸。到着したばかりの機内では、女性が一斉に慣れた手つきで、ヒジャブを頭につけ始めていた。

(ここイランでは1979年のイスラム革命以降、イスラム教に基づく法制が轢かれ女性には外出時、ヒジャブの着用が義務づけられている。ヒジャブの着用以外にも、飲酒禁止(スーパーの店内一角にノンアルコールコーナーはある)、未婚の男女がイチャイチャするのは禁止、女性の一人旅の際には、警察署に届け出が必要などなど、イスラーム法にのっとた厳格なルールがこの国を支配している。ここ最近、女性のサッカー観戦が認められるなど状況は少しづつ変わりつつある。大きな公園内を歩いているとき、人目を避けるように、大木の木陰に隠れて、手を握り合うカップルの姿を何度か見かけた。)

www.huffingtonpost.jp

 

入国前に、事前に大使館でVISAの申請をしていなかったため、空港でアライバルビザの申請をする必要があった。見慣れないペルシア語に囲まれながら、案内板の標識を頼りにどうにか申請窓口に到着。早朝のため、まだ人影は少なかった。そこで滞在先の住所や電話番号、パスポート番号、入国目的などを記入し、入国ゲートで”お決まりの”強面のおじさんにビザ申請用紙を渡す。

機内では、外国人は僕ぐらいかと思っていたが、ビザの申請窓口の周りには20人近くの旅行者がビザの発行を待っていた。西洋人に混じり、アジア人(多くが中国人と思われる)の姿もちらほら見られた。

近くにいた家電メーカーに勤めているという中国人ビジネスマンと、たわいもない話をしながら時間を潰した。欧米の経済制裁が課されているイランでも積極的に営業に勤しむ姿に、経済覇権を握りつつある国の勢いを感じた。

しばらくすると、窓口で彼の名前が呼ばれ、彼は去っていった。その後も同じタイミングで申請した人が次々とビザを受け取っていくが、一向に名前が呼ばれる気配はない。それどころか、僕より後に申請した人が、先にビザを受け取っているではないか。もしや忘れられているのではと思い、念のため窓口で声をかけると、「手続き中」との返事がかえってくるだけ。

忘れられている訳ではないのなら、根気良く待つよりほか仕方ない。先ほどまで闇に包まれていた街には気付けば、朝日が照りつけていた。4、5時間は経っただろうか。ようやく名前が呼ばれた頃には、時間は、8時を回っていた。とりあえず入国できることが分かり安心し、思わず「フー」と声を出しながら、深い息をついた。

これは後に、テヘランでお世話になった友人から聞いて判明したことだが、どうもイスラエルへの渡航歴が問題となっていたらしい。テヘランで泊めてもらう予定だった家には、朝5時近く、入国管理局の職員から電話があり、色々と僕について質問を受けたらしい。朝早くからお騒がせしてしまい、申し訳なかった。イスラエルとイラン関係の悪さの余波を、こんな形で受けるとは思ってもみなかった。

以前、イスラエルを出国する際にも、出国検査で疑いの目をかけられ、荷物を全て開けさせられた上に、靴下まで脱がされて全身をチェックされたことがあった。どうも、空港の手続きは、スムーズにいかない運命らしい。

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 (車線なんて御構い無しに、ぶっ飛ばすおじさんの横で。)  

入国ゲートを抜け、預けた荷物を回収しに、荷物引渡用コンベヤーへ向かうが、時すでに遅し。5時間前に着いた荷物が今も、孤独にグルグル回り続けているという微かな希望は、一瞬で消え去った。そこから、空港職員と「ここでもない」「あそこでもない」と言いながら建物をグルグル回り、入国ゲートの隅に無造作に置かれた荷物の山の中から、ようやくバックパックを見つけた。

閑散とした空港ビルには、なんとも言えぬイスラム情緒溢れる雰囲気が漂っていた。それでも出入り口には、「タクシー」「タクシー」と声をかけるタクシー運転手が、客引きに勤しんでいた。飛行機で4時間ほどしか睡眠をとっておらず疲れが溜まっていたので、適当に感じの良さそうなおじさんを勘で選び、そのタクシーに身を委ね、テヘラン中心部へと向かった。(帰りにイラン人の友人が呼んでくれたタクシーは、行きの半額ほどの値段で、ぼられたことを帰国寸前に知ることになるとは、この時、知る由もなかった。)

 

つづく.....

強大な権力に抗う香港 ②香港全土に広がる抗議の波。 壁一面のポストイットに込められた市民の怒りと祈り

Contents

  • 1. 広がる市民の怒り              
  • 2. 香港「レノンウォール」マップ
  • 3. 香港の学生が語るデモや香港の将来 「夢を見た」=「デモに行った」
  • 4. デモが私たちに問いかけること

 

1.広がる市民の怒り。

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7月28日の大規模デモを追った翌朝、私は中心街、尖沙咀(Tsim Sha Tsui)からMTR(香港の地下鉄)で30分ほどの距離にある大埔墟(Tai Po Market)駅に向かった。香港に住む友人から、「ぜひ最初に見せたいものがある」と言われ、待ち合わせ場所に指定された場所だ。周辺には、住宅地が広がり、地元の人々が大勢駅の構内を行き交う中で、観光客の姿はほとんど見かけなかった。

 

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大埔墟駅の改札を出ると、無数のポストイットやビラが貼られた地下道が目に飛び込んできた。ここ大埔墟には、香港で最大規模の「レノンウォール」がある。香港中心地から離れた郊外に存在するこの巨大な「レノンウォール」の存在は、抗議の波が中心地から郊外へと国内全土へと広がっていることを感じさせる。

 

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プラハにある「レノンウォール」)

 

「レノンウォール」とは

「レノンウォール」とは、かつて冷戦期の80年にチェコの首都、プラハでジョンレノンの死を悼んだ若者が、哀悼のメッセージを記した壁に由来する。自由や平和といったメッセージが込められたその壁は、その後、共産主義体制に対する抗議を示すシンボル的存在となった。その壁は、当時「自由」が制限されていた社会に生きる若者にとって、自分たちを抑圧する権力に対する怒りや自由への渇望を表現する数少ない場であった。

 

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200メートルほど続く地下道の壁を埋め尽くすポストイットやポスターには、逃亡犯条例を撤回しない政府や警察に対する強い怒りが現れている。

 

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公共標識の周りには、「案内板には(ポストイットを)張り付けないで」と記された注意書きがあった。大勢の人でごった返していたデモ集会の場において一般通行人のための通行路が確保されていたように、抗議の場において、道義に反することはしないというスタンスが貫かれている。

 

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壁の近くには、有志によって用意されたポストイットやペンが置かれた机が設置されていて、行き交う通行人がペンを取りそれぞれの思いを綴っていた。小学生くらいの年頃に見える少年が「香港加油」(香港頑張れ!)と書いていた光景がとても印象的だった。
 

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(彼らが求めるのは、条例施行の「延期」ではなく、「撤回」だということが書かれたビラ)

 

 もしかすると日本国内でニュースを見ている人の中には、政府の審議延期の決定や、林鄭月娥(キャリーラム)行政長官の会見での「法案は死んだ」発言を受け、「市民の粘り強いデモが実を結んだ」と成果を感じている人もいるかもしれない。

しかし、現地では市民の怒りは増すばかりだ。

彼らの多くは、ほとぼりが冷めた頃に法案が復活することを強く懸念していて、法案の完全撤回を求めている。法案の審議延期発表や、行政長官の発言後も抗議活動が続くのはそのためである。

 

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自由を求める市民の声を象徴する「レノンウォール」。香港では今、各地に広がっている。市民は、壁を見ることで、「自分は一人ではない、大勢の仲間がいる」という感情を抱く。そうした思いはある種の「希望」となり、人々が行動を続ける一つの大きな動機となっているのではないか。

 

「レノンウォール」は、恒久的なものではなく、いつの日か風とともに消えていくであろう。もし、近いうちに香港に行く予定がある方には、ぜひ「レノンウォール」を見て、香港市民の怒りに触れ、日本で当たり前のように私たちが持つ「自由」について考えるきっかけを持って頂ければと思う。

 

2.香港「レノンウォール」マップ 

香港市民の強い願いや怒りが各地の壁で訴えられている。全ての「レノンウォール」を把握することはできなかったが、今回訪れた「レノンウォール」を地図と共に紹介したい。

 

①大埔墟(Tai Po Market)駅

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大埔墟駅(Tai Po Market)のA2出口を出て、すぐ目の前に位置する地下道が「レノンウォール」となっている。香港で最大級の「レノンウォール」。

 

②金鐘(Admiralty)駅周辺

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金鐘(Admiralty)駅の改札を抜け、香港政府庁舎へ向かう出口を出た先にレノンウォールが広がっている。また、政府庁舎サイドへ繋がる歩道橋を渡って降りた先の政府庁舎の建物右側一階部分にも「レノンウォール」がある。

 

ここ政府庁舎は、2014年雨傘運動の舞台となった地で、当時も政府庁舎の外壁に巨大なレノンウォールがあった。今年1月香港を訪れた時には、そこに、かつての「レノンウォール」の面影はなかったが、現在、建物外壁は再び多くのビラやポストイットで覆い尽くされている。

 

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③波斯富街(Percival Street)駅の歩道橋

f:id:key2245:20190811020553p:plain路面電車の波斯富街駅に直結した歩道橋内部に「レノンウォール」がある。歩道橋内部の半透明のガラス部分は両面がほぼ全て「レノンウォール」になっている。

 

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波斯富街駅直結の歩道橋を覆い尽くす「レノンウォール」。

 

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尖沙咀(Tsim Sha Tsui) 北京道周辺の地下道

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Canton RoadやThe Sun ArcadeからPeking Road、Nathan Roadを繋ぐ地下道が「レノンウォール」となっている。ペニンシュラ香港など高級ホテルや高級ブランド店が軒を連ねる尖沙咀で「レノンウォール」は一際、存在感を放っていた。

 

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「レノンウォール」周辺では、ペンを取りポストイットにメッセージを書く人々の姿を多く、見かけた。

 

3.香港を飛び出したい気持ちと、香港人であるというアイデンティティ。2つの感情を交錯させる若者。

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(滞在したホステルの入り口に貼られていた逃亡犯条例に反対するポスターとデモの日程表。)

 

高まる香港人としてのアイデンティティ

 

「来月からワーキングホリデーのビザを使って、スウェーデンに行くの。できれば、現地で生活の基盤を築いて香港には戻りたくない。」

 

今回、現地を案内してくれた友人のYuiは、会って早々そう繰り出した。Yuiとは、留学先のスウェーデンの大学で知り合った。今回、香港に行くとメッセージを送ると快くガイドを引き受けてくれた。

 

2014年の雨傘運動が失敗し、中国政府が香港への介入を強め、自由が蝕まれていく中で、Yuiのように海外へ移住を希望する香港人が増えている。同様の現象は、香港返還前の天安門事件の際にも起きており、当時は約数十万人が国外へ向かったという。

香港中文大学香港アジア太平洋研究所が昨年12月に、18歳以上の香港市民を対象に行った調査によると、回答者の約3分の1が「機会があれば国外へ移住を望む、または移住を計画している」と回答。その主な理由としてあげられたのが、「政治の質」「住宅問題」や「社会的分裂」であった。 香港脱出を望む傾向は、特に若者の間で高い。

 

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According to the latest University of Hong Kong survey in 2017

 

自らを「香港人」と考える人の割合は近年増加傾向にある。上記のグラフは、香港返還後20年で、「中国人」にアイデンティティを見出す人の割合の移り変わりを示している。30歳以上では大きな変化はないが、黄緑で示された29歳以下の若者の間では、その変化は顕著だ。

 

返還時の1997年、約18%を占めていた自らを「中国人」と考える人の割合は、2017年には3.1%まで低下した。一国二制度の下、自由を享受してきた若者の多くが、他の層より敏感に、高まる”中国化”に嫌悪感を抱いている実情がグラフから浮かび上がる。

 

若者の多くが香港脱出を望む一方、「香港人」としてのアイデンティティを強く持っているというというアンビバレントな点が、彼らが抗議活動へ繰り出す一つの原動力となっているのではないか。

 

友人のYuiは、香港の危機的現状を危惧し、7月中旬のフライトをキャンセルし、8月末に出発日を延期したという。彼らの多くは、現状に失望している一方、未来のため、子供たちのために、声をあげないで傍観者でいることは無責任であると考えている。彼らは、中国共産党の操り人形となりつつある政府、住宅問題などに対し十分な対策を講じない政府に失望し嫌悪感を抱いているのであって、決して香港が嫌いなわけではない。

 

「夢を見た」=「デモに行った」

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(「7月21日、夢の中で会いましょう!!」)

 

彼らが絶望の中にも希望を見出そうとしている、と感じたことがあった。

 

カフェやレストランなど公共の場で、デモについて友人と話すときの「隠語」だ。

 

「デモ」を想起させる単語を直接口にすることは避けるとYuiは言う。代わりに使うのが「夢」という単語である。「デモに行った」と言う代わりに、「夢を見た」と言う具合である。

 

「自由」を求める彼らの行動が「夢」という言葉で語られている現状に、逆に「自由」が締め付けられつつある社会の息苦しさを感じた。

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(「レノンウォール」に貼られていた、法案反対の無抵抗の若者を殴った法案に賛成する一般市民の男性に関する情報。)*写真の一部にボカシをかけています

 

香港が中国へと返還された90年代、香港経済は中国経済全体の約2割を占めてたが、近年その数値は3%を切るまでに低下している。中国経済の急速な発展は、香港経済の中国本土への依存度を高めた。中国政府は現在、経済を盾に香港と本土との結びつきを強化しようと、広東、マカオ、香港を一体化させる「ビックベイエリア(大湾区)構想」を推進している。そこには、本土との経済的結びつきを強めることで、独立派の声を抑えたい中国政府の思惑が垣間見える。

そうした中で、中国政府との関係を悪化させ、経済に打撃を与えてまで、民主主義や自由といったものを守る価値はないと考える人々が増えている。香港社会では、そうした親中派と呼ばれる人々と法案に反対する人々の間で、分断が広がりつつある。 

 

4.デモが私たちに問いかけること

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先月、日本では参議院選挙が行われた。全年代平均の投票率は48.80%。史上2番目の低さだった。18歳、19歳に限って言えば、投票率はわずか31.33%と、若年層の政治への関心の低さが改めて浮き彫りになった。

 

日本では、「民主主義」や「自由」、「政治」について語るとどこかインテリ臭く捉えられ、そうした話題は敬遠されがちな空気が社会に漂う。私自身、友人との間でそうした話題を口にすることは少ない。しかし、自由や民主主義について語ることは馬鹿らしい、エリートぶったことなのだろうか。

 

私たちが日常で、何気なく使っているInstagramFacebook、LINE。自由にやり取りができて、発信したいことを投稿できるそうした自由を、私たちは、未来永劫なくなることのない「当たり前のもの」だと捉えてはいないだろうか。

 

昨年、イランを旅していた時、日本のLINEにあたるTelegramが突如政府によってブロックされ使うことができなくなった。多くのイラン人は、慣れた様子でVPNアプリを経由しインターネット規制を回避していたが、この経験は、「自由」がいかに”もろく”、安定したものではないものであることを私に気付かせてくれた。

 

民主主義社会における「自由」とは何だろうか。

 

もし私たちが、一票に価値がないと考え、政治に関与する権利を放棄してしまったら、私たちの権利が権力者によって知らず知らずのうちに、奪われてしまうかもしれない。

ある日突然、政府が国家安全保障上の理由から、TwitterやLINEへのアクセスを制限した時、一票を投じる権利を放棄していた国民は、それに対し文句を言う資格はあるのだろうか。

 

香港の若者は、日常生活における「当たり前」の自由を守るために、街へ繰り出し抗議活動を行っている。

壁に貼られたポストイットは無力で、政府にその訴えが届くことはないかもしれない。しかし、私は、彼らのそうした行動が決して無意味だとは思わない。彼らは、民主主義というもののあり方を説き、権利や自由の尊さを、行動で世界に示している。

 デモは私たちに、問いかける。「自由」って「当たり前」? 

 

 

 

 

 

 

 

強大な権力に抗う香港 ①デモ参加者を追う中で見えてきた市民の強い決意と将来に対する危機感

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7月28日、成田空港第三ターミナルの出発ロビーに設置されたテレビを囲む人々は、神妙な面持ちでニュースを見つめていた。テレビのニュース番組ではCNNのリポーターが香港、元朗(Yuen Long)でのデモ隊と警察隊の衝突を生中継で刻々と伝えていた。

 

4月28日 13万人デモ 6月9日 100万人デモ 6月16日 200万人デモ

 

人口約700万人の香港で、大規模なデモが毎週のように行われている。一体今、何が香港で起きているのか。4日間の香港滞在中、デモを追い、現地の学生と街を歩いた。そうした中で見えてきた、香港の現状と市民の思いについて、学生の視点でお届けしたい。

 

なお、ここに記す情報は、主に現地の香港市民、そして友人から聞いたことを基にしているため、偏りや情報の誤りがある可能性があることをご了承いただきたい。

 

Contents

  • 1. 香港に行こうと思ったきっかけ
  • 2. 香港の自由を保障する一国二制度とは            
  • 3. 脅かされる自由
  • 4. 逃亡犯条例とは 市民が懸念していること
  • 5. 7月28日 デモに参加して見えた市民の強い思いと香港の悲しい現状
  • 6. デモ参加者に対し誤解してほしくない事 「彼らは決して暴徒ではない」

 

1. 香港に行こうと思ったきっかけ

 

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6月、香港に住む友人のフェイスブックのプロフィール写真が一斉に黒に染まった。それは、逃亡犯条例改正案に反対するデモ隊への警察の暴力的な強制排除に対する抗議の意思表示だった。香港の大規模デモを伝えるニュースは、6月世界を駆け巡った。日本でも、新聞やテレビでその光景は大きく取り上げられた。 

10代、20代の同世代の若者が路上に繰り出し、逮捕のリスクを抱えながらも、強大な権力に立ち向かう姿は私にとって衝撃的だった。香港に住む友人らが毎日のようにインスタグラムやフェイスブックに投稿する警察によるデモ参加者に対する暴力的鎮圧を捉えた映像や、抗議の自殺をした若者に関するニュースを見る中で、同世代として何か彼らの手助けをすることができないかと思ったのが香港へ飛び立とうと思ったきっかけだ。

 

 
また、日本のメディアがデモ隊と警察との衝突を伝えるニュースの中で、どこかデモに参加する若者らを「狂信的な過激派」に映りかねない一面的な報道をしている点が気になった。私自身、デモ隊が政府庁舎の入り口を破壊し、議会を占拠したニュースを見た時、正直、こうした暴力的なやり方には疑問を感じた。しかし、そこまでの行為に及ぶ背景には、何かやむおえない切迫した事情があったのではないかとも思った。そうした問題の本質について、現地の学生に直接聞いてみたいと思ったのも、今回の渡航を決意した理由の一つだった。
 
香港に住む友人に連絡を取り、現地での案内を依頼し、航空券を手配。28日深夜の便で成田空港を後にした。

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(友人から送られてきた、デモのスケジュール。)

 

2. 一国二制度とは

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(デモ前の集会で、イギリス国旗を掲げる参加者。) 

 

香港はかつて、イギリスの植民地だった。

 

150年にわたるイギリスの支配を経て、1997年香港は中国へと返還された。その際、イギリス政府と中国政府との返還協定交渉の中で、両政府が合意したのが「一国二制度」である。

 

その内容は、香港は中国の一部になるものの、中国政府は、今後50年間(2047年まで)は外交、国防分野以外に関して香港が高度な自治権を持つことを認め、香港市民が享受してきた表現の自由を含む社会経済制度を維持するというもの。つまりお互いに、経済社会システムを維持したまま、形としては一つの国になるということだ。

 

中国内でアクセスが制限されているフェイスブックをはじめとする欧米発のSNSを、香港で使用できるのは、「一国二制度」が香港基本法に定められおり、基本法によって言論の自由表現の自由が認められているためである。ちなみに、香港におけるフェイスブックの利用者数は世界一位(2013年時点)を誇り、毎月の利用者数は430万人と、人口の60.1%に達する。

 

 

3. 脅かされる自由

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(中国国内に設置されている監視カメラ。)

 

中国国内にはない自由を享受してきた香港だが、近年そうした自由を脅かす、中国政府による香港の自由への圧力が高まりを見せている。

例えば、 

2014年、親中派と対する民主派寄りの論調をとる日刊新聞「明報」の編集長が暴漢に襲われ、重体になる事件が発生。

2015年、中国本土で販売が禁止されている、中国共産党幹部に関するスキャンダルを掲載した書籍を販売する書店の店主が相次いで失踪。数ヶ月後中国政府に身柄を拘束されていたことが判明。

2018年、香港の外国人記者クラブ副会長を務める、英経済紙ファイナンシャルタイムズ紙の記者が、香港政府によってビザの更新を拒否される。

2019年、天安門事件を追悼する集会に出席しようとした元学生リーダーが、香港国際空港で入国を拒否される。

今回、これほど多くの市民がデモに参加している背景の一つには、近年、こうした目に見える形で強まる中国政府の香港への介入が、法案成立によってさらに露骨なものになりうる事に対する危機感がある。

 

4. 逃亡犯条例とは 市民が懸念していること

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(デモ集会で手渡されたプラカード。広東語で「ここに来た動機を忘れないで。私たちは、法案が廃止されるまで決して諦めない」と書かれている。)

 

香港の中国化が進む現状に危機感を多くの市民が抱きはじめていた中で、提出されたのが今回の「逃亡犯条例改正案」であった。

 

改正案が成立すれば、香港当局が中国本土で起きた事件に関与した容疑者を中国本土へ移送することが可能となる。そこで、多くの人々が懸念しているのは、中国政府が本土内で起きた事件の関与をでっち上げ、中国政府に都合の悪い人々が中国本土へ送還される恐れだ。

 

中国には司法の独立はなく、司法は共産党の影響下にある。2015年には、人権派弁護士が一斉検挙され、多くが国家政権転覆罪などで裁かれ、実刑判決を言い渡された。共産党を批判する者は皆、口を封じられるのが中国の実態である。

多くの香港人は、もしこの法案が可決すればこの先、デモをすることができなくなるかもしれない。デモをしただけで捕まり、中国へ送還されるかもしれないという危機感を抱いている。あれだけ多くの市民がデモに毎週、参加している背景には、これが声を上げる最後の機会なのかもしれないという危機感が香港市民の間で、共有されているからだ。

 

法改正の影響を受けるのは、香港人に限った話ではない。中国政府に目をつけられれば、外国人も送還の対象になる。香港はその経済の自由度から国際金融都市として名高く、日本企業を含む多くの企業が香港でビジネスを行なっている。つまり、私たち自身にとっても、特にビジネスマンにとって、この法案改正を巡る動きは、無関係とは言えない問題なのだ。

 

4. デモに参加して見えた市民の強い思いと香港の悲しい現状

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7月28日、日曜日。遮打花園(Charter Garden)から中山記念公園(Sun Yat Sen Memorial Park)間で予定されていたデモへ向かった。

 

現地に着くと、デモ開始前なのにも関わらず、公園内はものすごい数の人で埋め尽くされており、入りきれなかった人々が周囲の道路に溢れかえっているほどであった。当日は、気温30度を超える蒸し暑さで、多くの人が額に汗を浮かべていた。一見、無秩序に見える現場だが、緊急時の通路が確保されていたり、有志の救援隊のスペースが確保されていたりと非常に統制が取れている印象を受けた。

 

公園内を歩いていて驚くのが参加者の年齢層である。中学生、高校生や大学生を中心に参加者の7割が20代前後の若者で、その他の3割が小さな子供の手を引いた家族連れやおじいさん、おばあさんといったかんじで非常に年齢層の幅が広いことが印象的だった。若者を中心とした幅広い世代で同様の危機感が共有されていることを、強く感じさせられた。

 

現在行われている抗議運動で、参加者が政府に要求しているのは以下の5つである。

 

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警察が当初、認可していたのは公園内での抗議集会のみであったが、一部の参加者が道路を歩き出し、それに多くの参加者が続く形で、デモ行進が始まった。デモに参加していた方の話によると、警察もこうした自体は予測しており、デモ行進を事実上黙認していたという。デモ参加者の多くは、デモのシンボルカラーである黒のTシャツを着ていたが、21日起きた襲撃事件の影響か、黒以外のシャツを着る参加者も少なくなかった。

 

21日起きた襲撃事件に関しては、こちらに分かりやすくまとめられている。私も、友人から「黒のシャツは襲撃される恐れがあるから、着ない方がいい」と言われた。

 

 

 

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途切れることのない参加者の波。デモコースの途中にあるコンビニは、飲料水を買い求める参加者で混みあっていた。

 

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デモ行進は、銅鑼灣駅周辺でストップ。その後、約3キロに渡る幹線道路の占拠が始まった。

 

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(デモ隊が占拠した区間) 

 

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デモを見ていると、参加者の多くが傘をさしている点が目にとまる。傘は、警察隊からのペッパースプレーや催涙弾から身を防ぐのが主な目的だが、顔を隠し、警察の検挙から逃れるという目的もある。

 

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夜21時をまわった頃、警察がデモ隊の強制排除に乗り出した。警察は、無差別にデモ隊に対し多数の催涙弾、ゴム弾を発射。多数の怪我人がでた。同日、現場で使われていた催涙弾は、使用期限が切れたものと後に判明。香港市民の身の安全が考慮されているとは言い難い事実である。また、デモ参加者以外の通りがかりの市民が警察による暴行を受けるという事もあった。

 

 

(7月28日 警察によるデモ隊排除の様子。)

 

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(政府機関の壁に書かれた「警」と「黒」で作られた造語。警察の暴力的な市民に対する対応や、政府の側に常に立ち、ギャングとも共謀する警察に対する不信感が滲み出てている。)

 

デモ後の駅には、デモ参加者に、電車のシングルチケット(日本のSuicaにあたるオクトパスカードを使うと足取りが記録されるため、デモ参加者の多くはその使用を避けている。)や黒以外の色のTシャツを配る市民の姿があった。

 

30日、香港警察は28日のデモで44人を「暴動の罪」で起訴したと発表した。6月から続くデモで、参加者が「暴動の罪」に問われるのはこれが初めてだという。香港政府は、強い姿勢でデモに対処する事で、市民のデモ参加の動きを抑え込もうとしている。ちなみに44人の中で、最年少は16歳の少女だった。彼らには、最大で禁錮10年が言い渡される可能性がある。

 

 

7. デモ参加者に対して誤解してほしくない事 彼らは決して暴徒ではない

 

過激な行動を取らざるを得ない状況

地下鉄の運行を妨害したり、幹線道路を占拠したりするなどのニュースを見ると、一見参加者が暴徒化した人々に映るかもしれない。

 

しかし、参加者の多くは、彼らの行動が多くの人に迷惑をかけることに繋がる事をもちろん理解している。多くの市民が、今考えうる限りの行動で、政府に対し声を上げなければ、香港の自由が失われてしまうという危機感を本気で抱いている。デモに参加すれば、逮捕され刑務所に送られるかもしれない。逮捕されれば大学を退学させられるかもしれない。そうしたリスクを冒してまで、デモに参加する原動力にはそうした強い危機感がある。

 

30日に行われた地下鉄の運行妨害を意図した抗議活動を伝える日本のメディアは、若者たちがそうした行動に出た背景を伝えるというよりは、抗議活動によって引き起こされた交通機関の混乱に焦点を当てているように見える一面的な報道が多かったように思える。このブログを通し、市民の自由を守るための強い決意と思いを少しでも理解していただくきっかけとなれば幸いです。これこそが、私にできる香港の友人への少しでもの、支援である。

  

あるデモに参加した女性は口にしていた。

「 これは、私たちの子供のため。自由のない社会を彼らに遺したくない。」

 

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NHKの地下鉄デモを伝えるニュース。一部メディアは、「迷惑?」「迷惑だよ」と答えるインタビューのみを流していた。こうした市民の声こそ、問題の本質を映すものであり、メディアが報道するべき事であると思う。)

 

 

(地下鉄妨害を止め、駅を後にする参加者を見送る通勤客。) 

 

 

 

 

スウェーデンの喫煙事情とスヌース(スウェーデン発祥の無煙たばこ)の実態。

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Contents

  • 1. スウェーデン喫煙事情 喫煙者減少の一方で増えるスヌース愛好者?
  • 2. SNUS(スヌース)とは             
  • 3. 非喫煙者は使用するべきではない!? 
  • 4. SNUS(スヌース)の歴史と歩みを学ぶのに最適  "SNUS&MATCH MUSEUM" 

 

 1スウェーデン喫煙事情 喫煙者減少の一方で増えるスヌース愛好者

 

スウェーデンでは今年7月、新たな喫煙対策規制法が施行された。

 

7月1日より、バス停や電車のホーム、バーやレストランのアウトドアスペースを含む場所における喫煙が規制の対象に加わり、公共スペースにおける喫煙はほぼ全面的に禁止される事になった。スウェーデンでは2005年に、いち早くバーやレストラン内での禁煙が義務化されており、今回の法案は更なる規制強化を求める声に応えたかたちだ。

 
スウェーデンでは近年、喫煙者の数は減少傾向にある。
 
EU統計局のタバコ消費量に関する調査データによると、15歳以上の喫煙率は16.7%と、EU加盟国内で最も低い喫煙率を誇っている。EU全体の喫煙率の平均は24%、喫煙率が最も高い国はブルガリアで、その割合は35%である。スウェーデン以外の北欧諸国の喫煙率は軒並み低く、フィンランドでは19.3%、デンマークは20.9%となっている。
 
喫煙者数が減少傾向にある背景には、喫煙に対する規制強化が一役買っていると言われているが、その一方で、無煙タバコ「スヌース」の愛好家が増えているという指摘もあり、タバコからスヌースへの移行が進んでいるだけという見方もある。
 
スウェーデン保健局によると、19%の男性、4%の女性が日常的にスヌースを使用している。ちなみに、スヌースの販売はスウェーデンを除く、全てのEU圏内で、健康に害を及ばす恐れがあるとして、法律によって規制されている。

 

2. SNUS(スヌース)とは

 

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スヌースは、タバコ葉を包んだポーションと呼ばれるティーパックのような袋を、歯茎と唇の間に挟み、唾液で溶けたニコチンを口内の粘膜から摂取し使用する。無臭で、火を使わず、煙を出さないため「無煙たばこ」とも呼ばれる。
 

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(写真にあるティーパックのようなものを歯茎と唇の間に挟み使用する。)
 
スヌースの歴史は深く、その起源は16世紀に遡る。当時かぎタバコと呼ばれていたスヌースの元祖は、フランスの宮廷をはじめ、上流階級が嗜む高価なものであり、片頭痛の治療薬として主に使われていたそうである。
 

17世紀に入ると、かぎタバコはスウェーデンに普及しはじめた。その後、かぎタバコをベースに19世紀、国内のタバコ生産者により考案されたものが現在のスヌースにあたるもので、その後、広く一般国民の間で普及していったという。

 

日本でも2013年8月よりスヌースの販売が開始されており、JT(日本たばこ産業会社)のHP上でも紹介されている。

 

3. 非喫煙者は試すべきではない!?

 

留学中、寮に住むシリア人の友人に薦められ、伝統文化に触れるという名目で、一度スヌースを試しに使用した。ちなみに、私は普段全くタバコを吸わない人間である。

 

唇と歯茎の間に入れると、少し歯茎を通し、発熱による熱さを感じ、10分ほど経つと頭が少しクラクラしはじめた。始めは、心地よい船酔いのような気分がしただけで、悪い気分はしなかった。しかし、時間が経つにつれ、徐々に吐き気を伴う気持ち悪さに襲われはじめ、20分後、口からポーションを吐き出した。頭がフラフラし、気持ち悪さに耐えきれずトイレに駆け込み、その後1時間ほどこもっていた。

 

最も強いスヌースを使用したため、このような結果を招いたのは否定できないが、個人的には、普段タバコを吸わない、ニコチンに慣れていない人間がスヌースを使用するのはおすすめできない。もし試してみるにしても、不快感を感じたらすぐに取り出した方がいい。

 

煙や臭いを発しないその特性から、授業中や仕事中にスヌースを使用しているスウェーデン人の友人は少なくなかった。タバコとは違うといえども、ニコチンを摂取することに変わりはなく、もちろん健康に対する害はある。ある研究調査によると、一日1~2つのポーションを使用するスヌースの愛好者は、そうでない人に比べ、糖尿病にかかる確率が70%高いという。タバコに比べスヌースによる健康被害に関する研究は乏しいため、スヌースの健康被害に対する危機感を抱きにくいことが、一部の研究者によって問題として指摘されている。

 

4. SNUS(スヌース)の歴史と歩みを学ぶなら  SNUS&MATCH MUSEUM

 

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ストックホルムには、スヌースの歴史と製造過程について学ぶことのできる博物館がある。その博物館は、観光客に人気の高いABBA博物館や野外博物館スカンセン、北方民族博物館があるユールゴールデン島に位置するため、それらを訪れるついでに覗いてみるのもいいかもしれない。

 

www.snusochtandsticksmuseum.se

中国夜行列車のんびり旅 上海→深セン移動(軟臥)

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2019年、新年が明けて早々バックパックを担ぎひとり中国へと飛んだ。お年玉の貰えない正月休みは、家にいて餅を食べているより旅にでも行って時間を使った方がいいと思って計画した旅だった。(もう22歳なのだから貰えないのは、当然か。) しかし、やはり正月くらいは家族とゆっくりと過ごすべきだったのではと、上海へ向かう機内で少し後悔の念に駆られた。

 

前置きはこの辺にして、高速鉄道をケチった僕は、今回、上海から香港へ向かう途中、上海深セン間、約1500キロの道のりを寝台列車を使って移動した。

Contents

  • 1. Trip.com アプリで予約
  • 2. チケット発券                      
  • 3. 乗車 18時間電車に揺られ深センへ ハイテク都市深センで感じた孤独感

 

 1. Trip.com

 

初めての中国旅ということもあり、駅でパニックになるのを避けるため、念には念を入れオンラインで事前に予約して列車の切符を買った。

 

使ったのはTrip.comというサイト。スマートフォンアプリもあり、アプリ内でもチケットの購入は可能。

jp.trip.com

日本語サイトがあるため、中国語が分からなくとも予約ができる。クレジットカード決済も可能。購入後送られてくるメールに記載されているEから始まる予約番号と予約時に使った身分証明書を用意し、現地の駅で紙のチケットに交換するというスタイル。

 

(注意)

チケット購入後のキャンセル、変更は不可なので注意。

 

2. チケット発券

 

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今回は、上海南駅(上海火車南站)から出発の列車を予約した。

 

地下鉄の改札を抜け、エスカレーターに乗り上階へ。中国の駅でのお決まりの儀式 ”荷物検査” のゲートを抜けると、チケットカウンターの入り口が正面に見えてくる。

 

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入り口を抜けた先にあるチケットカウンターへ。Eから始まる予約番号と身分証明書をチケットのおじさんに見せれば、紙のチケットを発券してくれる。混み具合によるのかもしれないが、チケット発券にはさほど時間は掛からなかった。

 

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こちらが手渡された、紙のチケット。

 

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駅構内の電光掲示板で自分の出る電車 (T211) を確認し、乗り口へと向かう。駅の構内にはイートインコーナー付きのローソン、ファーストフード店などがいくつかあるので、長旅を前に腹ごしらえをしておくのもあり。

 

列車内には食堂車があるもの、熱湯を注ぐ事ができる場があるので、お金を節約するためにカップヌードルを買っておくのもいいだろう。同室の都会風の雰囲気を醸し出すきらびやかな女性も、目の前で黙々とカップ麺をすすっていた。

 

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ホームは下階にあり、電車の出発時刻が来るまで上階の待合スペースで待機する。出発時刻が近づくと正面のゲートが開き、階段を降ってホームへと向かう事ができる。

 

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緑に黄色のラインが入った列車は、北朝鮮のお偉いさんが乗る電車に何処と無く似ている気がしなくもない。ここから1500キロ、18時間の長旅の幕開けだ。

 

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(軟臥の車内。2段ベットが2つの4人部屋。車内はとても清潔。WI-FIはない。)

 

座席のグレードは、奮発し最もグレードの高い軟臥を選択。それでも日本円で1万2000円ほどだったと思う。

 

中国の夜行列車には、「軟臥」「硬臥」「硬臥」「硬座」の4グレードがある。当初は、旅人らしく最も安価な「硬座」に挑もうと思ったが、硬座を経験した友人から、凄まじい体験談を聞かされたので、硬座体験は次回へ持ち越すことにした。

 

18時間、WI-FIもない車内で、ひたすら時の流れに身を任せる。

 

時節、隣の部屋から愉快なおじさんおばさんの歌声が聞こえてきたり、同室にいた子供が話しかけてきたりと、思っていたより退屈することはなかった。

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ほぼ予定時刻に、深セン駅に到着。

 

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早朝だったため、まだ外は暗かった。

 

朝食を食べに、街へと向かう。2店連続訪れた店がORコード決済のみの受付で、断念。さすが、アジアのシリコンバレーとして名高いハイテク都市深センである。

 

腹を空かせ、街をひたすら歩く。

 

3軒目に訪れた店で、ようやく朝食にありつく事ができた。そこは、老父婦が営む小さな定食屋だった。どこか時代に取り残されたような孤独感を彼らと、共有しているような気がした。その後深センに一泊し、翌朝、足早に香港へと向かった。

 

 

伸び続ける壁と街 パレスチナ自治区ベツレヘムで見た分断

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12月末、クリスマス飾りに包まれた街には、お祝いムードが漂っていた。エルサレムからバスに揺られて約30分。イエス・キリスト生誕の地として知られるここベツレヘムには、毎年多くの巡礼者が訪れる。特にクリスマス前後は、その人混みは勢いを増す。キリスト生誕教会にある謙虚の門と呼ばれる、人一人がやっと通れるほど狭い入り口を抜けた先の教会内は、多くの人でごった返していた。その喧騒の中で、世界中からやって来た信徒たちは、静かに祈りを捧げていた。
 

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人混みを抜け、キリスト生誕教会のある丘を下って30分ほど歩くと、目の前に大きなコンクリート製の壁が見えてくる。パレスチナ自治区イスラエルを分断する壁だ。
 
2002年にテロリストの侵入を食い止めるという名目で建設が始まった壁は、街を分断し、人の営みを破壊した。

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ある日突然、パレスチナ人が住む街で壁の建設が始まった。分断された街の一方はイスラエルの入植地となり、そこに住んでいた住民は住処を追われた。住処を追われた人々は、イスラエルを恨みユダヤ人に対し憎悪を抱いた。そうして生まれた憎しみは、不信感と共に次の世代へと受け継がれていく。
 
イスラエルの武力を盾にした強行的な姿勢は、パレスチナ人に不信感を抱かせるだけで、和平の道を阻む大きな障壁となっている。現在も解決の道筋は不透明のままだ。過去に壁建設の中止と徹去を求める国連決議や国際司法裁判所の勧告はあったものの、その壁は、今も静かにその距離を伸ばし続けている。
 

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先日、米トランプ政権のクシュナー大統領上級顧問を中心に作成された新たな和平案の一部が明らかになった。その内容は、500億ドル規模の経済プランにより、パレスチナ側をテーブルの席に着かせ和平を前進させようというものだが、イスラエル寄りの外交政策をとるトランプ政権の和平案に、パレスチナ側が応じる気配はない。当然であろう。
 

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かつて誰も予想できなかったベルリンの壁崩壊。ここにそびえ立つ壁もいつか崩れ落ちていくのだろうか。そうなると信じたい。一人ひとりが分断された世界がある現状を知ることが、壁に亀裂をいれる一歩なのではと思う。

 

ベビーカーとパパ スウェーデン留学で考えた男女平等

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ストックホルムの街を歩いていると、ベビーカーを押して歩くお父さんたちの姿をよく見かける。スウェーデンでは日常において、男女のあいだに壁を感じることは少ない。男性も女性も同じ期間育休をとり、子育ての負担を分かち合うのは当たり前だし、議会を見ても、閣僚の半分以上を女性が占めている。

そんな、スウェーデンにもかつて、女は家を守り、男は働くという考えがごく当たり前だった時代があった。しかし、経済発展と共に、労働者不足を補うために女性の社会進出を政府主体で推し進めたのをキッカケに、次第にそうした考えは社会から薄れていっていったそう。社会全体で男女格差をなくそうという強い意志と、声を上げた多くの女性の果たした役割は大きなものだった。フェミニズム外交を掲げるスウェーデンは、女性の権利が抑圧されている事を理由に、サウジアラビアとの軍事協定を延長しなかった事もあったほど。流石にその時ばかりは、経済界から反対の声があがり、外相は釈明に追われたが、発言を撤回することはしなかった。男女平等を掲げるスウェーデンの、芯の強さを感じるエピソードである。

国を挙げて男女平等を達成したかに見える一方で、まだまだ格差が残る分野もあった。そのひとつが、師弟制度の残る演劇や映画界。業界における女性比率は、男性に比べ低い傾向が続いていた。そんな、状況を変えようとスウェーデン映画界は、11年に国の助成金が支給される作品の監督やプロジューサー、脚本家の割合を同数に近づける目標を掲げ、女性人材の育成や労働環境の改善に努めた。結果として、そうした取り組みが功を奏し、助成を受けた長編のうち女性監督作の割合は、07年の26%から18年には65%へと大きく、向上した。スウェーデンの、男女格差是正への挑戦は、まだまだ終わらない。 

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育休をとる男性が増えたためか、最近、日本でも街を歩いていて、ベビーカーを押すお父さんたちの姿を昔に比べ、よく目にするようになった。父が母親に代わって家事、子育てをしていた我が小学生時代、小学校の避難訓練の際、生徒の保護者がぞくぞくと迎えにくる中、お母さんたちの群れに1人混じり、こっちを向いて、手を振る父の姿に恥ずかしさを感じた事を今でも覚えている。今は、同じ思いを抱く小学生は、少なくなったのだろうか。当時の父の姿を、今は誇らしく感じる。